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毎回、素晴らしい動画をありがとうございます。この動画を見ている皆さんの人生がより良いものであるように、願わずに入られませんね。
全く知らない関わりのない人なのに引き込まれて見入ってしまう···。
戦後の日本の復興を支えてくださったのですね、ありがとうございました。今の平和はこういった方々の日々の努力で享受できたものと感謝の気持ちで一杯です、心に沁みる映像でした。
この古いアルバムに写っている方達に敬意を払ってか、わかる場所の全てに行くその行動力にはいつも感心する。スゴい。
一日一日を大事に過ごす事が尊い事であって大切な事なんだと感じました。ありがとうございました。
アルバムの写真と今の映像を見て、戦前、戦中、戦後を生き抜いた主人公に、親の世代の一生を 重ねて思い描くことが出来ました。感慨深かったです
古いアルバムシリーズ、いつも楽しみに拝見しています。縁もゆかりもない方々の人生ですが、それぞれのドラマを感じます。
全ての人間に人生のドラマが在りますね。何気ない平凡の当たり前な毎日が、振り返った時に一番幸せだったと思うのでしょう。
古きよき時代でしたね。なんとなく懐かしいです。
荻窪は地元なので馴染みの場所が多く感慨深かったです。
お疲れ様です。いつもこのシリーズは見入ってしまいますね。今回は戦時中の航空機が写っていたのがある意味リアルさを感じました。
AIによるカラー化って本当に素晴らしいですね。感動します。3:50 教会通り入口から写真上の右手に進むと、荻窪駅のほか、青梅街道が中央線を越える大踏切があり、南口に周ることもできました。また、時期にもよりますが、同じく写真右手青梅街道上には都電14系統新宿角筈行きの電停もありました。写真の持ち主さんの時代だと、ちょうど天沼陸橋が戦争を挟んで完成する前後の時期ですね。(戦中に着工し戦後すぐぐらいに完成したはずです)6:49 の飛行機は、胴体が太く、かつ急激に絞られているので、もしかしたら零戦ではなく雷電じゃないでしょうか。だとしたら大変珍しい機体だと思います。零戦の6パーセントほどの数しか生産されていませんので。貴重な写真をありがとうございました。
いつも感動をありがとうございます。
子供の成長を写真に撮ってくれるゆとりのある家庭。さらに都市部の写真館のある環境でないと戦前の個人の写真は残りにかいようですね。
何だか切ないですね。
人には…それぞれ歴史があるのですね…🥺今更ながら…何か大切な事を学んでいる様な気がしてなりません。小田急殿…ありがとう御座居ます。
いつもありがとうございます。主様の動画を観る度に、なんだか切ない気持ちになります…近年になる程、人々の活気が無くなる様な…
プロの写真は、仕事ですから、直ぐに価値が出ます。一般人の写真は、40年くらい経つとたとえピンボケでも素晴らしい歴史的価値になると思っています。
自分が知らない時代でも、涙が出るほど懐かしい。時の流れは無限、生成消滅は人の世のならい…😢
古い写真や街並みにとっても興味があるので、このシリーズすごい好きです。 できれば、この町のお年寄りの方などに聞き込みして、この健さん本人あるいは知り合いを探し、あるいは家族の方にお話を伺ってみてもらえたら、もっとよかったかな~と思います。 勝手ながら。
10 thumbs up! I appreciate what you are doing.
写真を懐かしく拝見しました。荻窪には5才から27才まで清水町、井草電話局の近くに住んでいました。小学生の時に誘われてです天沼協会に通っていました。そばに衛生病院があり外国のお医者さんとその家族のきれいな家がありました。協会のクリスマス会でイエス・キリスト誕生の劇をしました。協会の先生はとても優しいのを覚えています。昭和39年の東京オリンピックの前でした。貴重な写真をありがとうございます。
24才で結婚した家近くに井伏鱒二さん宅がありました。よく黒塗りの車が止まっていました。その近くに将棋の大山名人のお家がありました。私の母が孫を抱いて外にいると歩いて来た大山名人が挨拶してくれた。と話していました。学校は違いますが若杉小学校がなくなってしまったんですね。学生時代から仕事の行き帰りと学校の前を歩いて荻窪駅まで歩いて行きました。いろんな事が思い出します。
戦禍に翻弄され行方が分からなくなった人生ではなく、焼け野原の中でも出会いがあり、昭和中期の躍動感の中心で足跡を残せた人生だったと思います。このアルバムは中のお祭り写真の周囲の人の表情からも、決して悲劇で終わった人生の記録ではなかったと思います。
わが町、荻窪にようこそいらっしゃいました。
豊島園の音楽堂が写ってますね!実物の写真は初めて見ました、ありがとうございます!(^-^)教会通りは以前歩いたことがあるので感慨深く見させては頂きました。鎌倉の大仏さんもこれから行く時は『あ、あそこは健さん達が座ってたところだ!』とか思うようになるかもしれませんね(^-^)。
親戚の、居住区と写っていたちびっ子の世代が近いので感慨深いです。しかも、親戚宅には同じ表紙のアルバムもあるという。町内祭りを取り仕切っている会長さんを訪ねれば、ケンさんのその後も分かるやもしれませんね。近しい方にアルバムをお見せしたら色々なお話が聞けるかも❤
教会通入り口付近にAM/PMが出来て毎日のように通いました。荻窪の会社で働いていた時が人生で一番充実していたかも知れません。荻窪に久しぶりに行ってみたくなりました。
"1日1日を大切に生きなければ❗️" 本当仰るとうりですね❗️😢😭
この人は故郷で育ち、一生を送ったようですね。羨ましいです。私は故郷を早くに失ってますからw
僕もですね
ともすれば、前世代の方々を批判するような風潮の昨今。激動の時代に揉まれ翻弄されつつ、それでも確かにそこに生きていた。誰が彼らの営みを否定できるでしょうか?
写真はそこに居た証。そこに生きていた証。そこで暮らしていた証。TBSの昔「岸辺のアルバム」というドラマがあった。家庭崩壊の危機の中、ある日川の氾濫で家が流され崩れる家に戻り「家族のアルバム」を持ち出すという良いドラマ。今でも記憶に残ってる。自身も実家の両親が他界した後、法事で実家にあったアルバムは兄弟の同意を得て自分が持ち帰って大切にしている。
平成1~2年の頃に彼女が荻窪に住んでいたので、天沼八幡神社の周辺をウロウロしてましたもしかしたらどこかで健さんとすれ違ってたかもしれませんね、なにもかも懐かしいあれから30数年オレもすっかりオジサンになってしまいました。
大阪バージョンもやって欲しいな
こんにちは、昭和25年にカメラを持ってるのは裕福な家庭だと思います。三菱に勤めていたようですね。
毎回写真の様子から、もしかしてご存命なのでは?と期待してしまう。
若い頃、荻窪に住んでいました。漢珍亭のラーメン、並んでまでよく食べにいったな〜。なつかしい・・
アルバムの持ち主が幸せであったことを願います。
おひとりおひとりの人生に感謝してもしきれません有難う御座いました(;_;)/~~~
実家を処分する際、古いアルバムを整理してしまいました。凛々しい若き日の父の写真、輝いている娘時代の母の写真。後悔しています。小田急Timesさんのように父、母の足跡のたどれば良かった。
古い写真は もの悲しい。すでにこの世にはいません。自分とオーバーラップして…スマホの中の写真はどうなってしまうのか?
こんにちは🤭
「健さん」のアルバムには写真が時系列を追っていない配列だったとのことです。時代背景的にそんな自己のアルバム整理などと言う余裕がなかったのか?はたまた健さんの性格か?でも海兵団入営後とみられる二等水兵の健さんの写真が存在すると同時に、最終頁は海軍下士官となられた自身の写真が固定されていた。やはり健さんの人生で一世一代の出来事だったのだと思います。きっと戦後、かなり時間が経ってから健さんご自分で張り替えたのでしょう。
仕事中の写真を見て、荻窪無線という電気屋さんと関係があるかと感じました。
この回が1番好きで何度も見てしまいます。運動会の女の子と着物でおめかしした女の子が可愛いですね。洗濯物を干していた女性は美しいですね。ご健在なのでしょうか?
その時代、その場所で確実にその人が存在した。写真のみですが今後は100年前のカラー映像が膨大な量で膨大な人が残っていくのでしょうね。その時は見つけた人がどのように語ってくれるのでしょうね
どこからこの様なアルバムを持ってくるのでしょう?
今回は知人のまたその知人の方よりお借りしました
@@time3276古本屋で買うのでは?知人の古本屋に父の軍人の写真買うよと言われた。そんな端金のために赤の他人に売るなんて恥知らずなことできぬと断った。
人間とはとか、人生とか色々考えさせられます。🙁
今はスマホでパシャパシャ撮るけど、昭和の時代はイベントの時にしか撮影しなかった。ましてや、戦中戦後すぐなんて、ハレの日にしか撮らなかっただろう。
白黒の写真をカラーにするとこの方々の人生が湧き出てくるみたいです。
6:52 心霊写真?後ろの方なんか怖い。
人生は短いよすぐ終わる。
健さんの生まれは昭和の初めごろだろうから、生きていれば100歳未満だから、亡くなっている、というのはおかしいと思う。
毎回、素晴らしい動画をありがとうございます。
この動画を見ている皆さんの人生がより良いものであるように、願わずに入られませんね。
全く知らない関わりのない人なのに
引き込まれて見入ってしまう···。
戦後の日本の復興を支えてくださったのですね、ありがとうございました。今の平和はこういった方々の日々の努力で享受できたものと感謝の気持ちで一杯です、心に沁みる映像でした。
この古いアルバムに写っている方達に敬意を払ってか、わかる場所の全てに行くその行動力にはいつも感心する。スゴい。
一日一日を大事に過ごす事が尊い事であって大切な事なんだと感じました。
ありがとうございました。
アルバムの写真と今の映像を見て、戦前、戦中、戦後を生き抜いた主人公に、親の世代の一生を 重ねて思い描くことが出来ました。
感慨深かったです
古いアルバムシリーズ、いつも楽しみに拝見しています。縁もゆかりもない方々の人生ですが、それぞれのドラマを感じます。
全ての人間に人生のドラマが在りますね。
何気ない平凡の当たり前な毎日が、振り返った時に一番幸せだったと思うのでしょう。
古きよき時代でしたね。なんとなく懐かしいです。
荻窪は地元なので馴染みの場所が多く感慨深かったです。
お疲れ様です。いつもこのシリーズは見入ってしまいますね。今回は戦時中の航空機が写っていたのがある意味リアルさを感じました。
AIによるカラー化って本当に素晴らしいですね。感動します。
3:50 教会通り入口から写真上の右手に進むと、荻窪駅のほか、青梅街道が中央線を越える大踏切があり、南口に周ることもできました。また、時期にもよりますが、同じく写真右手青梅街道上には都電14系統新宿角筈行きの電停もありました。写真の持ち主さんの時代だと、ちょうど天沼陸橋が戦争を挟んで完成する前後の時期ですね。(戦中に着工し戦後すぐぐらいに完成したはずです)
6:49 の飛行機は、胴体が太く、かつ急激に絞られているので、もしかしたら零戦ではなく雷電じゃないでしょうか。だとしたら大変珍しい機体だと思います。零戦の6パーセントほどの数しか生産されていませんので。
貴重な写真をありがとうございました。
いつも感動をありがとうございます。
子供の成長を写真に撮ってくれるゆとりのある家庭。さらに都市部の写真館のある環境でないと戦前の個人の写真は残りにかいようですね。
何だか切ないですね。
人には…それぞれ歴史があるのですね…🥺
今更ながら…何か大切な事を学んでいる様な気がしてなりません。
小田急殿…ありがとう御座居ます。
いつもありがとうございます。
主様の動画を観る度に、なんだか切ない気持ちになります…
近年になる程、人々の活気が無くなる様な…
プロの写真は、仕事ですから、直ぐに価値が出ます。一般人の写真は、40年くらい経つとたとえピンボケでも素晴らしい歴史的価値になると思っています。
自分が知らない時代でも、涙が出るほど懐かしい。時の流れは無限、生成消滅は人の世のならい…😢
古い写真や街並みにとっても興味があるので、このシリーズすごい好きです。 できれば、この町のお年寄りの方などに聞き込みして、この健さん本人あるいは知り合いを探し、あるいは家族の方にお話を伺ってみてもらえたら、もっとよかったかな~と思います。 勝手ながら。
10 thumbs up! I appreciate what you are doing.
写真を懐かしく拝見しました。
荻窪には5才から27才まで清水町、井草電話局の近くに住んでいました。
小学生の時に誘われてです天沼協会に通っていました。そばに衛生病院があり外国のお医者さんとその家族のきれいな家がありました。
協会のクリスマス会で
イエス・キリスト誕生
の劇をしました。
協会の先生はとても優しいのを覚えています。
昭和39年の東京オリンピックの前でした。
貴重な写真をありがとうございます。
24才で結婚した家近くに井伏鱒二さん宅がありました。よく黒塗りの車が止まっていました。
その近くに将棋の大山名人
のお家がありました。私の母が孫を抱いて外にいると
歩いて来た大山名人が
挨拶してくれた。
と話していました。
学校は違いますが若杉小学校がなくなってしまったんですね。学生時代から
仕事の行き帰りと学校の前を歩いて荻窪駅まで歩いて行きました。
いろんな事が思い出します。
戦禍に翻弄され行方が分からなくなった人生ではなく、焼け野原の中でも出会いがあり、昭和中期の躍動感の中心で足跡を残せた人生だったと思います。このアルバムは中のお祭り写真の周囲の人の表情からも、決して悲劇で終わった人生の記録ではなかったと思います。
わが町、荻窪にようこそいらっしゃいました。
豊島園の音楽堂が写ってますね!
実物の写真は初めて見ました、ありがとうございます!(^-^)
教会通りは以前歩いたことがあるので感慨深く見させては頂きました。
鎌倉の大仏さんもこれから行く時は『あ、あそこは健さん達が座ってたところだ!』とか思うようになるかもしれませんね(^-^)。
親戚の、居住区と写っていたちびっ子の世代が近いので感慨深いです。
しかも、親戚宅には同じ表紙のアルバムもあるという。
町内祭りを取り仕切っている会長さんを訪ねれば、ケンさんのその後も分かるやもしれませんね。
近しい方にアルバムをお見せしたら色々なお話が聞けるかも❤
教会通入り口付近にAM/PMが出来て毎日のように通いました。荻窪の会社で働いていた時が人生で一番充実していたかも知れません。荻窪に久しぶりに行ってみたくなりました。
"1日1日を大切に生きなければ❗️"
本当仰るとうりですね❗️😢😭
この人は故郷で育ち、一生を送ったようですね。羨ましいです。私は故郷を早くに失ってますからw
僕もですね
ともすれば、前世代の方々を批判するような風潮の昨今。激動の時代に揉まれ翻弄されつつ、それでも確かにそこに生きていた。誰が彼らの営みを否定できるでしょうか?
写真はそこに居た証。そこに生きていた証。そこで暮らしていた証。
TBSの昔「岸辺のアルバム」というドラマがあった。家庭崩壊の危機の中、ある日川の氾濫で家が流され崩れる家に戻り「家族のアルバム」を持ち出すという良いドラマ。今でも記憶に残ってる。自身も実家の両親が他界した後、法事で実家にあったアルバムは兄弟の同意を得て自分が持ち帰って大切にしている。
平成1~2年の頃に彼女が荻窪に住んでいたので、天沼八幡神社の周辺をウロウロしてました
もしかしたらどこかで健さんとすれ違ってたかもしれませんね、なにもかも懐かしい
あれから30数年オレもすっかりオジサンになってしまいました。
大阪バージョンもやって欲しいな
こんにちは、昭和25年にカメラを持ってるのは裕福な家庭だと思います。
三菱に勤めていたようですね。
毎回写真の様子から、もしかしてご存命なのでは?と期待してしまう。
若い頃、荻窪に住んでいました。漢珍亭のラーメン、並んでまでよく食べにいったな〜。なつかしい・・
アルバムの持ち主が幸せであったことを願います。
おひとりおひとりの人生に感謝してもしきれません有難う御座いました(;_;)/~~~
実家を処分する際、古いアルバムを整理してしまいました。凛々しい若き日の父の写真、輝いている娘時代の母の写真。後悔しています。小田急Timesさんのように父、母の足跡のたどれば良かった。
古い写真は もの悲しい。すでにこの世にはいません。自分とオーバーラップして…スマホの中の写真はどうなってしまうのか?
こんにちは🤭
「健さん」のアルバムには写真が時系列を追っていない配列だったとのことです。
時代背景的にそんな自己のアルバム整理などと言う余裕がなかったのか?
はたまた健さんの性格か?
でも海兵団入営後とみられる二等水兵の健さんの写真が存在すると同時に、最終頁は海軍下士官となられた自身の写真が固定されていた。
やはり健さんの人生で一世一代の出来事だったのだと思います。
きっと戦後、かなり時間が経ってから健さんご自分で張り替えたのでしょう。
仕事中の写真を見て、荻窪無線という電気屋さんと関係があるかと感じました。
この回が1番好きで何度も見てしまいます。運動会の女の子と着物でおめかしした女の子が可愛いですね。洗濯物を干していた女性は美しいですね。ご健在なのでしょうか?
その時代、その場所で確実にその人が存在した。写真のみですが今後は
100年前のカラー映像が膨大な量で
膨大な人が残っていくのでしょうね。
その時は見つけた人がどのように語ってくれるのでしょうね
どこからこの様なアルバムを持ってくるのでしょう?
今回は知人のまたその知人の方よりお借りしました
@@time3276古本屋で買うのでは?知人の古本屋に父の軍人の写真買うよと言われた。そんな端金のために赤の他人に売るなんて恥知らずなことできぬと断った。
人間とはとか、人生とか色々考えさせられます。🙁
今はスマホでパシャパシャ撮るけど、昭和の時代はイベントの時にしか撮影しなかった。ましてや、戦中戦後すぐなんて、ハレの日にしか撮らなかっただろう。
白黒の写真をカラーにするとこの方々の人生が湧き出てくるみたいです。
6:52 心霊写真?
後ろの方なんか怖い。
人生は短いよすぐ終わる。
健さんの生まれは昭和の初めごろだろうから、生きていれば100歳未満だから、亡くなっている、というのはおかしいと思う。